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神村眞

末っ子長男姉二人の

1977年10月28日東京都杉並区生まれ、現在は世田谷区在住。

サラリーマンの父と専業主婦のごく普通の家庭に三兄弟の第三子の長男として生まれました。

いわゆる末っ子長男姉二人です。父にとっては待望の男の子で、何をしても父は許してくれました。そのころから、自分は優遇される存在のように感じ始め、自由な性格はこの頃から育まれたと思います。

その分、7歳離れた長女は絶対的存在で、毎日のように泣かされていました。

ある年の正月に誓った一年の豊富は「365日のうち、泣かない日を作る」でした。

性格はこの上なく人見知り。今でも初対面の人と打ち解けるのに時間がかかるのは、元来の性格だと思います。でも、自分で言うのもなんですが、情が厚く、義理堅い性格なので、仲良くなったらとことん仲良くなるタイプです。

すくすくと育った神村少年でしたが、7歳のとき、転機が訪れました。

肥満の幼少期

ファミコンの登場です。それまで、家庭用ゲーム機というものはなく、それまでの人生至上、最大のインパクトのある出来事でした。

7歳の誕生日にファミコンを買ってもらい、春になるまで約半年間、ひたすらスーパーマリオをはじめとするゲームに没頭しました。

朝から晩までとにかくファミコン。日中はおやつとジュース。

もちろん太りますよね。放任主義の家庭でしたから、際限なくやりたい放題でした。

今でも覚えています。その半年で7kgも太りました。今7歳になる娘が20kgちょっとですので、仮に20kg→27kgになったとすると、60kgの男性で言えば81kgまで増えるようなイメージです。

つまり、激太りです。おかげでうつむいてもはちきれんばかりの太鼓腹が邪魔をして、股間が見えませんでした。

その年ごろの子は、通常ぐんぐん身長が伸びるので、太ろうにもなかなか太れませんが、別の方向に成長してしまったのです。

野球との出会い

そんな神村少年を変えたのは、少年野球でした。小学校4年生から地元の少年野球クラブに所属して、野球を始めました。

小学校卒業時にもまだ太っていましたが、中学校2年生の時にはすっかりスリムな体型に戻りました。

もともと一つのことに打ち込み続けることが大好きだった神村少年は、野球にハマり、中学からキャッチャーで4番。高校では硬式野球部のキャプテンを務めました。もともと素直で一筋な性格、そしてチームメンバーを思いやり、一緒に成長していくというプロセスにやりがいというものを感じていました。

大学受験の挫折

中学校までは、神童と呼ばれ、いつも学年トップクラスの成績を収めていました。

姉が通う個人塾についでにお世話になって、そこで地道に勉強をし続けていたおかげだと思います。

高校は都立西高という進学校で、歴史のある名門校でした。なので、西高への進学が決まると、周囲の人はさすがしんちゃんともてはやしてくれました。

個人的には第一志望ではなかったので、進学してもいいかなくらいの感覚で西高の門をくぐりました。

進学校での挫折

西高では、毎年実力試験というものがあり、1学年400人程度いる生徒の順位が校内に張り出される試験がありました。1年生の9月に初めての実力試験があり、ほぼ勉強をせずに150位くらいの成績でした。勉強しなくても、「そこそこのポジションにいれるんだ。自分は頭がいい。」とこの程度の成績で過信し始めてしまいました。

高校では野球に明け暮れ、テスト勉強もろくにせずに、野球のことしか考えない少年でした。甲子園に行けるわけでもないのに。中学校までお世話になっていた塾にもいかなくなり、テスト前も勉強しなくなりました。冬は幼いころから好きだったスキー三昧で、好きなことばかりして暮らしていました。

おかげで高校三年生の時には、成績は下位に低迷し、400人中350位くらいの順位までまんまと堕落しました。

現役の時の大学受験ではスキーをしたくて北海道大学理学部を受験しましたが、受かるわけもなく、敢えなく1年間の浪人生活を過ごしました。

父の死

浪人になっても、自由な生活に拍車がかかり、予備校も駿台新宿校という大久保駅に位置し、昼はゲームセンター、夜はカラオケか飲み会とまさに浪人生活を送っていました。

同じ高校の悪友達が大勢通う校舎だったので、予備校は完全に社交場で、東大スーパーコースというコースであったものの、張り詰めた空気感は全くなくただただ遊びほうけていました。

浪人の9月。父が入院するという連絡を母から受けました。体調が悪く、背中が痛いということで精密検査を受けたところ、そのまま入院になりました。

詳細は入院してから知ることになり、末期の肝臓がんでした。

切除不能の進行性肝細胞癌で、有効な抗がん剤治療もありませんでした。アルコールを注入したり、レーザーで病変を焼き切ったり、動脈から抗がん剤を局所的に注入したりと姑息的な治療もあるのですが、それすらも行う意味がないくらい末期中の末期でした。

入院してからしばらくして骨への転移のせいか、痛みを感じはじめ、モルヒネによる疼痛コントロールをしはじめました。痛みが強かったせいか、日に日に投与量が増えて、日中の意識ももうろうとしはじめました。おかげで、予備校帰りに三鷹にある病院にお見舞いにきても、父とコミュニケーションを取ることはもはやできなくなっていました。

そして、入院から3カ月後の1996年12月20日に父は50歳の若さで逝去しました。

一言で表現すると、自由人だった父。定時に家に帰ることはほとんどなく、夜は仕事の付き合いで、週末はゴルフ三昧。家族サービスというものは日曜に夕飯を車で連れて行ってくれるくらいでした。家でも子供との会話は少なく、私もあまり身近に感じなかったほどの父でしたが、おちゃめで憎めない性格の父は、愛が深い人で、触れ合える短い時間はとても楽しい思い出ばかりでした。

中高生になると、私も友達と夜まで遊ぶようになり、ますます父と過ごす時間は短くなりました。

そんな行き違いの生活の中でいきなりの逝去。父が何を考えて生きてきたのか、父が何をモットーにあんなに熱く仕事に取り組んでいたのか。父は子供たちに何を残したかったのか。なにもわからないまま、父との別れを惜しむ間もなく、さすが自由人だなと思わせるくらいに風のように去っていきました。

薬学部への受験直前の進路変更

受験は早い大学では1月から入試がスタートします。

浪人になった時もスキーをしたくて、北海道大学に行こうと思っていました。

しかしながら、父が入院中に服薬指導をしにきてくれる薬剤師の先生をえらくお気に入りだという話を姉から聞いていました。

「薬剤師はいいぞー、薬剤師は本当にいい」と言っていたという話を聞いて、「薬剤師になろう」と思い立ち、薬学部を受験することにしました。

父の死に伴い、北海道大学の受験を取りやめ、東京の明治薬科大学を受験して、薬学生になりました。明治薬科大学はその当時、三軒茶屋にキャンパスがありました。三軒茶屋は父が生まれ育った土地です。明薬に行ったら父も喜ぶかなと思っていましたが、期待も虚しく、願書を提出する前に父は他界しました。

臨床薬剤師への志

薬学部はあの当時はまだ4年制でしたが、今も昔も変わりなく、実習が多く、なかなか遊んでいられない学生生活でした。

父のお気に入りの薬剤師の先生は、調剤業務だけでなく、病棟で患者さんへの服薬指導もする、その当時まだ新しかった「臨床薬剤師」と呼ばれる先生でした。

明薬の薬剤学教室の緒方宏泰先生は臨床薬剤師の育成に高い志を掲げておられた先生で、神村青年は臨床薬剤師になるべく、大学で最も厳しいと言われた緒方先生の研究室にお世話になりました。

その頃の4年制の薬学部では臨床的なカリキュラムが不十分だったために、明薬には他の薬科大学では類を見ない、「臨床薬学コース」という大学院修士課程のコースがありました。私も迷わず臨床薬学コースに進学し、薬物治療のエキスパートとして、医師に薬物治療をアドバイスできる臨床薬剤師になることを夢見て、勉強し続けました。

臨床薬剤師から医薬品開発マンへの転身

大学院の臨床薬学コースでは、1年半の病院実習、3カ月間の調剤薬局での研修と実際の医療現場でインターンのような形で勉強していました。しかし、病院や調剤薬局で目の当たりにしたのは、「医療」ではなく「業務」でした。

今になってわかりますが、いくら高尚な仕事であっても、仕事は仕事です。病棟に行って患者さんに服薬指導をするのも、保険点数を目的とする側面もあります。さらに、実際に医師に薬物治療をアドバイスできる薬剤師はほとんどおらず、医師も薬剤師を頼ることもなく薬物治療が行われている現状を目の当たりにして、理想と現実のギャップに幻滅しました。

病院勤務の薬剤師であっても、薬物治療の専門的な勉強はしてきていないのですから、できないのは当たり前。期待されないのも当たり前。神村青年は幻滅したその世界を自ら切り開いていこうとはせずに、病院には就職せず、医薬品開発の道に進みました。

薬物治療は、AよりBの薬が臨床試験で効果が高いことが示されているから、Bを使いましょうという、経験ベースではなく、エビデンス(証拠)ベースの治療を行います。そのエビデンスの蓄積というのがいわゆる医薬品開発の仕事でした。医師に薬物治療を進言できないのなら、自分が医師が必要としている薬を開発しようと思い立ったのです。

また、グローバル化と騒がれた時代背景ということもあり、英語を習得してグローバルで活躍したいという気持ちも芽生え、外資系の医薬品開発を専門に行う会社に就職しました。

がんを治せ

医薬品開発の仕事は面白く、やりがいのある仕事でした。

入社した2003年当時はまだまだ薬の種類が多く、従来の薬よりも効きがよく、副作用も少ない新薬がどんどん上市された時代でした。私も日本全国各地に飛び回り、治験を行っている病院で症例データを収集し、1日も早く新薬を患者さんの元へ届けるという使命を胸に、真剣に仕事に取り組みました。

入社5年目から、海外のバイオベンチャーが有望ながんの新薬を開発したいということで、その当時エース社員として一線で働いていた私に白羽の矢が立ちました。日本人に初めて投与する試験の症例データのすべてを賄う役目を担い、国立がん研究センターの新薬開発を担う第一線の先生方と共に医薬品候補の開発を進めました。

結果、その試験は大成功に終わり、海外が先行して行われることの多い臨床試験にも遅れることなく便乗することができ、世界同時開発にこぎつけることができました。

おかげでその新薬は2015年に胃がんの治療薬として承認され、今では重要な治療薬の位置づけとなっています。

中年太りと不健康

モーレツ社員として、医薬品開発の仕事に没頭する傍ら、元来食べることが好きで、飲み会も大好きだった神村社員は20代後半からどんどん体重が増えていくのが気になりました。

その時はおシャレなシャツを着るのが大好きでしたが、そのオシャレなシャツも、デスクに向かう時には背中がパツパツで、前面もボタンが吹っ飛びそうなくらいになってしまいました。

また、その頃はヘビースモーカーで、1日1箱以上タバコを吸っていましたが、若いころはタバコが食事のような感覚で過ごしていました。

健康には不安がなく暮らしていましたが、30歳に近づいてきたころ、次第に疲れを感じるようになってきました。

残業続きの毎日、夜になると頭が働かなくなり、息苦しく、とにかく疲れる。

人がひかないくらい風邪をひきやすいし、そしてなかなか治らない。

このままだと到底定年まで働けない。

「とりあえず痩せるために運動しよう」と思い立った。

トライアスロンとの出会い

2008年から、当時住んでいた江戸川河川敷を毎朝5時に起きて走る習慣を身につけました。

走りはじめのころは1kmも走れずに、高校までの体育会系が嘘のように感じた。あれから12年も経過しているし、仕方ないと思っていました。

でも、1kmが2km。2kmが5km。5kmが10kmと、

走れば走るほど距離を延ばすことができた。

走ると疲れるけど、ぐっすり眠れる。汗をかくのが気持ちいい。嫌なことも忘れる。

ついには、2010年の東京マラソンで初めてフルマラソンを完走するまでになった。

フルマラソンは走ると人生観が変わると言われていたが、特に何も変わりませんでした。

じゃあ、その先にはなにがあるんだろう?

それで、当時通っていた美容院の美容師さんに、走って、自転車乗ってるんだったら、あとは泳げばトライアスロンだねと言われて、トライアスロンの存在を知りました。

そして、当時「行列のできる法律相談所」で東野、菊池弁護士らが、石垣島トライアスロンに出場していた番組を見て「トライアスリートになろう!」ということで、翌年の石垣島トライアスロンに出場し、無事に完走することができました。

トライアスロンがとにかく楽しかった。

スイム、バイク、ラン、それぞれの弱点を補い、バランスよく練習を積んで、3種類の競技でそこそこの成績を収めると、トータル順位がかなり上がります。

短いハイペースなレースは全然好きじゃなかったので、とにかく自分のペースで取り組み、ひたすら距離を延ばしていきました。

そして、最終的にはロングディスタンスとかアイアンマンとか言われるレベルのレースにいきついたのです。

スイム 3.8km、バイク 180km、ラン 42.2km

東京から西は浜松。北東は仙台、北西は長野まで行ける距離。

それを明け方から夜まで丸一日かけて走り切る。

そんな極限のレースに没頭するようになりました。ハマりすぎたおかげで2014年の五島長崎国際トライアスロン大会(通称:バラモンキング)では、30代の年代別で上位の成績を収め、アマチュア日本代表にも選ばれました。

極限のレース中は感極まって泣きます。

そして、極限のレースをゴールすると、その後の余韻がいつまでも続きます。

その感覚がたまらずに、今でもほとんど練習しない状態で1年に1回は日本一距離の長い佐渡国際トライアスロン大会に参加しています。

運動しても痩せない

運動のきっかけはダイエットでした。

でも、走っても痩せませんでした。だから、もっと走りました。

100km走っても、痩せませんでした。

長い距離走れる体を作るために、健康的な食生活を摂り入れました。

グリーンスムージー、麹から作った甘酒や醤(ひしお)を摂ることで腸内環境を整えました。

そして、週に10時間も運動をして、月に2,3回はレースに出ていました。

でも全然痩せずに、一番パフォーマンスが高かった時の体型は、身長174cmで体重が72kgありました。

筋肉量が60kgくらいありましたが、脂肪も十分にあり、いわゆる「ゴリマッチョ」でした。

トライアスリートはスリムな人が多く、自分もスリムになれるかと思っていましたが、理想の体にはかけ離れていました。

いくら運動しても、「ゴリマッチョ」にしかなれませんでした。

運動をし続けて、脂肪を燃やしきるという作戦は効果がなかったのです。

そこから、運動をせずに脂肪を減らすことに専念し始めたのです。

アンチエイジング学会の会員となり、痩せるサイエンス、つまり内分泌・代謝医学、そしてパフォーマンスアップのためのアンチエイジング医学を学び始めました。

 

ダイエットコーチとして起業

日本抗加齢医学会、日本食糧・栄養学会、日本内分泌学会、抗加齢内分泌研究会、糖化ストレス研究会、その他種々の研修会の場を利用し、食をコントロールするダイエットのサイエンスを学び尽くしました。

平行して国内/海外医学論文、専門書籍を読み漁り、運動せずとも脂肪を燃やす理論に行きつき、それが今の私のダイエットの根幹となっています。

自分で試して、特に運動もせずに普段通りに暮らしているだけで、5カ月で8kg減りました。そもそも体脂肪が15%だったので、何十キロも減ったわけではありませんが、体脂肪も10%まで落ちました。

この変化に、周囲も知り合いも興味を持ち始め、ダイエット法を伝授するようになりました。

試すたびにスルスル痩せていく人を目の当たりにして、かねてから考えていた起業のテーマとして利用することにしました。

30人もの無料モニターを経験して、ダイエットメソッドに確信を得て、ついに有料のダイエットサービスを2017年1月から開始し始めました。これまで通算50人以上の方に経験いただき、およそ300kgの脂肪を燃焼させてきました。

お客様には、経営者、個人事業主、医師国家試験受験者、アスリートをはじめとして、働き盛りの30代中盤以降の方に主にご利用いただいております。

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